介護

【親の介護4】脳梗塞の後の認知症に悩んで介護鬱になる

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

4月17日(月)の夜に脳梗塞で救急搬送され、1週間の予定で検査入院となったうちの母でしたが、実際に病院にいたのは4日間だけでした。

母は入院翌日からせん妄を起こし、看護師にわたしに電話をしてほしいと何度も頼んだり、家に帰りたいと泣き出したり、病室に知らない男の人がいるなどと言い出し、明らかに混乱をきたしていました。担当の看護師からは、うるさいほどナースコールを押すわ、夜中も寝ないで騒いでいた。今度そういうことがあったら家族の方に連絡するかもしれませんと言われました。

病室に行ってベッドの上の母をみれば、検査用の浴衣を裸の上にはおっただけのだらしない恰好をさせられていたので、せめて家から持参したパジャマに着替えさせてやって欲しいと看護師に頼んでも一向に着せてくれなかったり、検査と点滴や食事の時間以外は問題のある患者としてすっかり放置されているような状態が続いていました。

一番怖いのは脳梗塞の再発だけれども、病院での環境が悪すぎます。窓側のベッドなのに日も当たらない。一日中夕方のように暗い部屋。ベッドサイドにポータブルトイレが置かれているけれども、点滴の輸液ポンプがベッドの反対側に繋がれているのでいちいち看護師を呼ばないといけない。看護師を呼ぶと血栓予防のため遠くのトイレまで延々歩かされる。ベッドの周りが狭くて面会に行っても補助椅子もなく座ることすらできない。そしてなにより、重い認知症の患者さんと2人きりの相部屋では、もとから、まだらボケの母は環境の変化に対応できないまま本格的な認知症になりそうだと思いました。

これは一刻も早く家に連れて帰ったほうがいいんじゃないか…。

母はわたしの顔を見ると「家に帰りたい」と泣くのです。

4月19日(水)はわたしの診察日でした。いつもなら血液検査を終えて、診察、検査結果がOKなら翌週からの入院手続きという流れになります。わたしは母が脳梗塞で入院していることを主治医に伝えました。医師からは現在のわたしの病状では1ヶ月以上化学療法を空けることはできない。待っても3週間まで、と期限を切られました。月曜に入院したばかりですし、検査中でもあるので、とりあえず金曜日にまた話をしに来なさいと、診察の予約を入れてくださいました。

その日の午後3時、母の面会に行ったときに幸運にも主治医の先生とお話しする機会がありました。ちょうど午前中で一通りの検査は終わったということで、画像を見せていただきながら病状の説明を受けました。当初は金曜か土曜の退院予定でしたが、医師から

「明日退院しますか。長く入院してるとボケちゃうから」

と、急に言われて拍子抜けしました。

急いでケアマネに連絡して退院を手伝ってくれるヘルパーさんを探しました。わたしは長い間の化学療法ですっかり筋力が衰えてしまって、母の荷物を持ったり車椅子を押すことは無理なのです。たまたまいつもうちに来てくれているヘルパーさんが空いていたので、病院に来ていただくことが決まり、翌日20日(木)には、とっとと退院しました。母は家に帰ってきてからも

「キツネにつままれたみたいだ」

と何度も言いました。そりゃそうでしょう。

わたしですら目が回るほど超絶怒涛の4日間でしたから。

21日(金)午前中の婦人科診察で、主治医に、昨日母が退院したこと、予定通り来週月曜からの入院化学療法を受けるつもりだと伝えました。わたしの主治医としては安心したのではないでしょうか。

お昼には、母をずっと診てくださっている訪問医療の整形外科の先生が往診に来てくださいました。母は家に帰ってきてからも夜間せん妄はみられましたが、日中はすっかり落ち着きを取り戻しているように見えました。往診の先生とも以前と変わらない様子で話ができています。先生は

「まあ、入院すると環境が変わるから、多少の混乱は誰でもありますよ」

「本当に水頭症なのかなあ? 脳に水って昔っから言われてなかった?」

と母に聞きました。すると

「そうなんですよー」

と、答えます。

同じ日の午後、今度は頑張って母の車椅子を押して、画像データと紹介状を持って午前中に来たのと同じ病院の脳神経外科を受診しました。

脳神経外科には母が数年前から撮りためていた脳のCT画像が何枚も残っていました。それと今回撮影した画像を比較して、

「確かに小さな脳梗塞はあるけど、水頭症の所見はないよ」

と言われました。つまり、脳の中に水が溜まっているような影が以前の写真にもみられるけれど、大きくなっているわけではないから大丈夫でしょうというのです。わたしは母のせん妄は水頭症からきているのかもしれない。もしそうなったら手術を覚悟しなければと思っていましたので、これには本当に安心しました。

脳神経外科の先生は「こういうのは本当は脳神経内科が診るんだけどね」とおっしゃりながら、母にさりげなく質問を重ねていきます。年齢は? どこで生まれたのか。そこは何が名物なのか。若いころは何をしていたのか。趣味は何か。得意なことは何か。

そうです、認知症のテストです。次に手を組んで同じように組めるかやらせてみます。見たものを自分で再現できるか。うちの母はできませんでした。でもその結果

「このくらいのお歳になるといろいろ衰えてくるのは当たり前なの。一番いいのはね、よくしゃべること。いっぱいおしゃべりするようにしましょう」

と言われました。そして、母は心臓に持病があり、循環器内科にかかりつけの医師がいらっしゃるので、その先生に血液をサラサラにする薬(バイアスピリン)を変更してはどうかという内容のメモを電子カルテに書き加えてくれました。母は初めて会った脳神経外科の先生が、優しくいろいろな話を聞いてくださるのですっかりファンになったようでした。

しかし、事件は23日(日)の夜起こりました。
夕食を終えて、わたしは明日からの入院用の鞄に着替えを詰め込んでいました。どうも母が部屋と台所の間をバタバタ移動しています。なんとなく嫌な予感がしたので母の部屋に様子を見に行くと、母がお薬カレンダーに入れてある薬を3日分いっぺんに飲んでしまっていました。

薬の管理は介護ヘルパーが週に一回お薬カレンダーにセットしてくれて、服用は母に任せきりにしていました。今思えば、母が脳梗塞を発症したのもわたしが薬の飲み忘れをちゃんとチェックしていなかったからでした。

母にしてみれば、薬を飲み忘れてはいけないという強い思いがあるのでしょう。しかしそれに反して、海馬の委縮により新しい記憶がこぼれ落ちてしまっているのと、脳梗塞からの入院で見当識障害がひどくなっていて、日時や曜日の感覚が壊れてしまいました。そのため薬を飲んだことを何度も忘れ、目の前にある薬を次々と飲んでしまうようになりました。

このとき服用した薬は整腸剤と降圧剤、不整脈の薬でしたので、倒れたりしたらどうしようと心配しました。でも意外としっかりしていたので一晩母の具合を見て、翌日の入院をどうするか決めようと思っていました。

わたし自身の病状があまり良くないことは分かっていました。再び母のために化学療法を中止することは大変な恐怖でした。母には多少不自由をかけても、今度は自分の治療をちゃんとしたい。そういう気持ちがこのときは強かったのです。

結局、わたしは母を家に残して、24日(月)から予定通り入院しました。

ケアマネと打ち合わせをして、薬の管理と介護ヘルパーの訪問回数を増やしてもらいました。

しかし退院した26日(水)にも母は夜の薬を3日分飲んでしまいました。

このころから、わたしは副作用による体調不良と闘いながら、度重なる母の奇行に振り回されるようになりました。

とにかく夜間せん妄がひどくて夜中に何度も起こされます。がさごそと探し物を始めては、何を探しているかを忘れている。急にご飯を食べなきゃと台所に行っては冷蔵庫を開ける。朝起きて母の部屋に行くと、タンスの中の服が全部床に散らばっている。夜中に知らない紳士がやって来たと言いだす、などなど。

睡眠薬を飲んでいても眠れません。

加速をつけて精神のバランスを崩していく自分がどうしようもなく無力な存在に感じるようになりました。いくら母のために走り回っても、介護をしても、賽の河原じゃないか。いつまで、どこまでやっても報われることはない。こんなわたしを一体誰が助けてくれるというのだろう。誰もいない。

介護疲れの毎日。ほんの30分、愛犬を抱っこしてベランダのメダカをボーっとながめる。全身が鉛のように重くなって動けない。いっそのこと母を殺してしまえば、病気で弱っていくわたしを見ることもなく、娘ががんであることも忘れたまま先に逝ってくれて幸せなんじゃないか…。

5月2日(火)わたしは精神科を受診しました。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

コメントを残す

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。