日記

母が亡くなりました 前編

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2019年2月10日、うちの母が亡くなりました。

ブログに書くことは本当につらくて、なかなか筆が進まないのですが、自分で自分の心を整理するというか、起こったことを客観的に受け止められるように、まとまりのない文章ですが、綴っていこうと思います。しかし、急なことで一ヶ月経った今でもピンとこなくて、家の中で母の気配を感じながら日々生活しています。

前日

東京は朝から大雪が降って、母のデイサービスはお休みすることにしました。母もちょうど休みたいところだったと言って喜んでいました。昼間は母と雪を見ながら「ぼた雪だね」「積もりそうだね」などと話していました。寒いので、お互いに食事と薬のとき以外は布団から出ないでテレビを見て過ごしていましたが、珍しい雪景色に母の機嫌もよさそうでした。

夕方の天気予報を見て「明日は天気が良さそうだからデイサービスに行ってみる?」と聞くと「そうだね、行ってみようかな」と言うので、施設に連絡して、明日の送迎をお願いしました。今にして思えば、自分からデイサービスに行きたがることはめったになかったので、何か導きがあったのだろうか。もしや父が母を呼んだのだろうか、と思うような出来事が起こったのです。

数日前の夜に、母が

「お父さんに電話しなきゃ。大変なことになる」

と、寝ているわたしを起こします。いつもの夜間せん妄では、母の言う「お父さん」「お母さん」は、実の父母、わたしの祖父・祖母のことなのです。そこで

「お父さんって、どこに電話するの?」

と聞いたら、自宅の電話番号を答えます。普段は自宅の電話番号さえ忘れてしまっている人が正確に答えたので、

「お父さんって、どこのお父さん?」

と聞くと「うちのお父さん」と言います。わたしの部屋にある父の遺影を指さすと「あのお父さん?」「そう」と、壁に掛けた父の写真を見上げます。

「でも、その電話番号はうちの電話番号だから、うちにはかからないよ」

「えー」

「うちに電話かけてもお父さんは死んじゃってるから、かからないでしょ」

「えー、困った。大変なことになるのよ」

このときは比較的母の状態もクリアだったので、なだめて寝かせて落ち着いてくれました。

よくあるせん妄に違いないのですが、今にしてみれば不思議だなと思うのです。

母との最後の食事になってしまいましたが、夜は豆乳と豚バラ肉のお鍋にして、小食な母にしてはがんばって「うまい、うまい」と食べてくれました。うちの犬も一緒に食卓にいて、自分のごはんを食べてしまうと、母にお肉をねだったりしていました。

薬も以前は母に渡して、飲むのを目で確認していましたが、それでも薬を落としてしまうので、母の口を開けさせて口の中に薬を直接入れてやっていました。寝る前の薬をいつものように飲ませ、布団にねかしつけ、犬と一緒に「おやすみ」をいい、「おやすみ」と返ってくる。なにげない1日でした。

当日

今朝はデイサービスのお迎えがいつもより30分早く来るので、わたしも早起きしてお湯をわかし、母が大好きなココアを入れて、ポットのお湯と水道のお湯を合わせてちょっと熱めの顔拭き用タオルを固く絞って、母を起こしに寝室にいきました。母は眠たそうにしていましたがすごく元気でした。

認知症特有の症状で、見当識障害というのでしょうか。母は日にちと時間がわからなくなっていました。毎日、老人用の大きなカレンダーつき時計に合わせながら、子猫の写真がついたカレンダーと、母自身がデイサービスで作ったカレンダーの日めくりを使って、

「おはよう。今日は〇月〇日、〇曜日です。今、朝の7時半。デイサービスに行く日ですよ」

と、日時と曜日、時間、1日の予定を伝えながら母を起こします。

母は熱いタオルで顔を拭くと

「あー、気持ちがいい。完全に目が覚めた」

といい、ココアの入ったカップを渡すと

「あー、あったかい。うまいなー。どうしてこんなにうまいんだろう」

と、嬉しそうにココアを飲んでくれました。いつもはエンシュアリキッドのコーヒー味を飲ませるのですが、1缶飲むのに時間がかかるので、その日はデイサービスのバッグに入れておきました。

年寄りの薬は量が多いです。薬局に頼んで一包化してもらっても10個以上大小さまざまな効能の薬を飲まなければなりません。最初は袋から出して母の手のひらに薬を乗せてやっていたのですが、それを一個一個数えて自分なりに確認してから飲む癖がありました。そうしている間に薬がポロポロ落ちてしまったりするのです。

「お母さんは薬を飲むのは上手なんだよ」

などと言って、口の中の薬を文句もなく飲んでくれました。朝ゆっくりできるときは、バナナやオレンジなどのフルーツを小さめの一口サイズに切ったものを食べてから薬を飲んでもらったりしました。

無事に薬が飲めたら第一段階完了。第二段階の服選びに移ります。デイサービスを嫌がるときはパジャマを着替えさせることすらできなくなります。自分ひとりではセーターの両袖を両足に履いたり、服を着る順番が分からなくなってパニックになったりと、服の着替えもできないのです。

毎回ベッドの上に2パターンの服を出して、どちらの服がいいか選んでもらいます。母は紫色が好きなので、困ったときの紫で、紫色のセーターと、ピンク色のアンサンブルだったらどっちがいい? と、選ばせます。多少グズっていた朝でも服のチョイスが決まってくれれば第二段階完了です。

第二段階で決まった服を着せ替え人形に着せるように母に着せていきます。

「下着新しいのに着替えるから、はい、両手上に上げてー」

「セーター頭出してー。右の手こっちから握手してー。そう、左の手こっちから握手ー」

「リハビリパンツごと下全部脱いでー」

母は、リハビリパンツを苦手にしていました。

「これ、わかんないんだよね。がしゃがしゃして」

「わかんなくないよ。うしろって書いてあるじゃん」

リハビリパンツを腰まで上げてやり、ショーツ、ズボン下、ズボン、の順に履かせます。靴下もお気に入りの柄があって、毛玉がついたようなのは嫌がりました。一通り着替えが終わると、必ず全身が映る姿見でチェックしてもらいます。うちの母は若いころから大変おしゃれな人でした。服の好みもはっきりしていて、わたしが買ってあげた服でも気に入らないと着ませんでした。だから、朝の着替えで母の好みにぴったりだと、機嫌よくデイサービスに行ってくれるので、服選びは手が抜けないのです。

この日は紫づくしでした。紫のタートルネックのセーターに、紫のヒートテックフリースTシャツ、黒のヒートテックスラックスに紫の靴下。

ここまでいくと、犬を母のところに連れてきて朝の挨拶をさせます。薬を落として探さなければならなかったり、何か母が落としたものを犬が誤飲してしまうのを避けるため、母の支度が済んでから犬をケージから出してやっていました。

デイサービスの送迎のKさんが来てくれました。Kさんは犬を飼っていたこともあり、犬好きで、うちの犬とも仲良しです。犬はKさんのいる玄関にぱぁーっと駆け寄って甘えています。その間に母にコートと帽子、マフラーをかけてやって準備OK。母を車椅子に乗せて、犬を抱っこ。

「蓮ちゃん、行ってくるねえ。蓮ちゃんのこと頼むねえ」

母が犬の名前を呼びながら手を振るので、わたしも犬の手を持って

「お母さん、行ってらっしゃい」

と、見送ります。いつもと変わらぬ、むしろいつもより元気そうな母。これがわたしにとって生きている最後の母になりました。

デイサービスの施設内で心肺停止状態に

その日の午後、3時位でしたか。楽しみにしていたテレビのバラエティ番組を見終わって、そろそろ母を迎える用意をしようと、台所で洗い物を始めたところ電話がかかってきました。母が行っているデイサービスの施設長さんからでした。どうも、母の具合が悪いらしいと。本人は家に帰りたいと言っているが、救急車を呼んでいいか、という内容でした。母には不整脈の持病があり、胸水が溜まっていたりしたので、右心不全と診断され、通院治療中でした。母には心臓の持病があるので、すぐに救急車を呼んでくださいとお願いしました。かかりつけの病院に救急車が行けるとは限らないので、とりあえずわたしは自宅にいて、病院が決まったら電話がくることになりました。

次に電話をくれたのは、朝母を迎えに来てくれたKさんでした。

「〇〇(母の名前)ちゃんが……。今大変なことになってるの……。救急隊の人が来て、今、心臓マッサージしてる」

救急隊の方と電話を代わり

「娘さん? 今、お母さんは心肺停止状態で蘇生措置をしています。これから病院へ搬送しますが、かかりつけの一般病院へ行くか、高度救命救急センターのある病院へ行くか決めてください」

わたしは、このときまだ母の身に起こっていることが理解できませんでした。心肺停止状態。心臓マッサージ。わからないなりに高度救命救急センターのある病院への搬送をお願いしました。電話を切って、外出の用意をしているとき、築地の聖路加国際病院に搬送することが決まったと改めて連絡がありました。わたしは築地へ向かいました。

救急救命室での対面

タクシーで聖路加国際病院に向かう途中、運転手さんが、わたしの息が上がっているので

「ずいぶん息が苦しそうですね」

と、言われました。運転手さんはわたし自身の具合が悪くて、病院へ行こうとしていると思ったかもしれませんが、このとき、母がわたしの体を使って、心臓の苦しさを懸命に伝えてきていたような気がします。

聖路加国際病院へ到着して、救急車で母につきそって来てくれた、デイサービスの施設長さんと会いました。施設長さんは

「お母さんはこちらで診ていただいて、救命措置をしていただいたんですけれど、先生の方からこれ以上は患者さんにとってもかわいそうだということで、娘さんが到着してからと思ったんですけど、わたしが承諾して処置を中止していただきました。16時42分逝去ということで。申し訳ありません」

わたしは母の最期を看取ることはできませんでした。

救命に当たった医師から、直接何らかの説明を受けましたが、全く覚えていません。聖路加に着いたときには既に亡くなっていたようなことを言われた気がします。

ようやく会えた母は救命室の一角のスチール製の冷たいベッドの上に寝ていました。

「お母さん、〇〇(わたしの名前)が来たよ!!! お母さん!!! 〇〇だよ!!! 起きて!」

わたしの声が外にいる医師や患者さんにまで聞こえるくらい大きかったらしく、病院の方が部屋のドアをババッと閉じました。ご逝去と言われても、まだわたしは信じたくない気持ちでいっぱいだったのです。何度も母に呼びかけましたが全く反応はありません。救命処置で口の中にチューブを入れていたため、口を開いたまま、目をつぶって横たわっている姿は、命が尽きてしばらく時間が経っていることを感じさせるに十分でした。お気に入りの紫のセーターはハサミで切られて戻ってきました。母がいつもつけていた結婚指輪も、入れ歯も外されて返ってきました。

霊安室で警察の取り調べを受ける

霊安室で見た母の姿は、病院でエンジェルケアを施してくださった直後だったので、とてもきれいでした。泣きながら母の頬をなでたり、おでこをなでたりしていました。頬は血色もよく、まだやわらかく、温かみを感じました。いつも薬を入れてやっていた口が開いているので、手で閉じようとしましたが最後まで口は閉じませんでした。わたしは母に語りかけました

「圧迫骨折で入院したときも、脳梗塞で運ばれた時も、わたしが助けてあげたじゃん。なんで置いていくの? なんで助けてあげられなかったのかなあ……。どうしてひとりで行っちゃったの? お母さん。今までお母さんのためにつらい治療に耐えてきて、お母さんのために生きてきたんだよ。お母さんの介護だってがんばったでしょ。お母さんが生きててくれて、蓮ちゃんと3人で静かに暮らしていければそれでよかったのに。これからわたしはどうしたらいいの? ねえ、お母さん。お母さん。ごめんね。ひとりにしてごめんね」

霊安室では、デイサービスの施設長さんも一緒でした。このときはわたしより、施設長さんのショックの方が大きかったと思います。目の前で母が倒れ、救急車でも付き添い、延命処置の中止を決断させられ、その娘が目の前で号泣している。もっと早く救急車を呼ぶべきだったのか? しかし、救急隊が来た時には容態が急変していてどうしようもなかった。施設長としての自責の念と憔悴。こんなにつらい立場はなかったと思います。

実は、母が亡くなったのは病院や家ではないため、変死扱いになり、警察の刑事さんがこれから事情聴取に来るので、それまで霊安室で待っていてくださいと言われていました。

施設長さんとその日、母がどんな様子だったか、ようやく詳しい話を聞くことができました。朝は蒸しタオルで顔を拭いて「完全に目が覚めた」と言っていた母が、デイサービスではずっと眠気を訴え、傾眠状態だったこと。昼食も食べず、エンシュアリキッドも飲もうとしなかったこと。眠っていた途中で暑い暑いと言い出し、着ていたセーターを脱いだこと。ポカリスエットを150ml飲んだこと。

うちにいたら間違いなく、もっと早く救急車を呼んでいました。でもデイサービスの施設には看護師さんがいます。その方の判断が優先されるのは無理もないことです。どうして。仕方ない。なぜ。急だった。誰のせい? 誰も悪くない。疑問と是認が交互に頭の中で入れ替わります。

それでも、施設長さんが一緒にいてくれたことで、どれほど心強かったか。わたしひとりで母の急変に対応し、仮に命が助かったとしても、その後の入院生活を支え続けることができただろうか。母は家に帰りたかったと思うし、施設のみなさんに大きな迷惑をかけてしまったけれど、常にスタッフの皆さんに囲まれて、声をかけてもらえて、さみしくなかったのではないか。もしかしたら、母はわたしに迷惑をかけまいと、このような突然の死を自ら選んだのではないだろうか。そう考えると、霊安室で母の遺体に向かい合っている時間が、なんだか暖かく、穏やかに流れていくような気がしました。

しばらくして、警視庁のベストを着た刑事さんが2人、霊安室にやってきました。わたしには、昨日食べたものや、最近の母の様子、持病などについて聞かれました。これから母は、明日の検死のため、警察署に搬送すると言われました。検死? 解剖するんですか? 母の死と肉体的疲労でほとんど思考停止状態に陥っていたわたしは、新しい言葉を受け入れることが難しくなっていました。

「明日、警察署に東京都監察医務院の先生が回ってきて、お母さんの死因を調べます。それで死亡診断書を書いてもらいますから。事件性があればその後、司法解剖ということになりますが、88歳のご老人をこれ以上傷つけたくないでしょ。先生が警察署に来る時間が分かれば、お宅に連絡しますので警察署に来てください。先生から説明があります。これからお母さんは警察署に搬送します。あとでお宅に現場検証に伺いますので」

警察の方は何も考えられなくなっているわたしに、親身になっていろいろ優しい言葉をかけてくださいました。死亡現場になってしまったデイサービスの施設長さんのほうが事情聴取が長く、亡くなる2週間ほど前に母が施設で転倒し、後頭部に内出血があったことまで詳しく聞かれているようでした。

母を病院から警察署に搬送するときには、聖路加国際病院の医師も見送ってくれました。

車の中

すっかり夜になり、施設長さんが送迎のKさんが病院まで車で迎えに来るというので、わたしも家まで送ってもらいました。Kさんの到着を待つ間、わたしはグズグズ泣いていたのですが、3人で車に乗り、道すがら母の話をずっとしていました。

Kさんは今朝、母を迎えに来てくれたスタッフの方なので、どれだけ母が元気な様子だったか知っているし、容態が急変したときもずっと傍らについていてくれました。Kさんも、施設長さんも、わたしも、まだ信じられない。母を家に送らなきゃと思っている。犬の名前よく呼んでたよね。蓮子ちゃん、蓮ちゃんってね。夕方になると帰りたいって。むずがるとよく犬の動画をスマホで見せてあげると喜んでた。テレビで大相撲を見るとき、一番前のいい席で見せてくれるって喜んでた。スタッフのTちゃんになついてたよね。よく〇〇ちゃんのお話聞いてあげてだからね。編み物得意でね。みんなに教える役だったね。嫌なときは眉間に皺が寄るのね。そんな顔しちゃダメだよって皺を鏡で見せてやったら変な顔すぐやめたんだよ。お花見は喜んでたね。また行きたいって言ってたね。小食だったからご飯食べてもらうのに最後まで待って、やっと食べてもらってた。最近は自分でも頑張ってたくさん食べるようにしてたみたい。不思議だね。嘘みたいだね。ピンとこないね。

女性3人かしましく、母の思い出話が止まりませんでした。

現場検証

デイサービスの車が自宅の前について、母は毎回こうして家に帰って来るんだなと、追体験をしたような気で車を降りました。わたしの足元がふらついていたので、施設長さんが玄関までわたしの腕を支えてくれました。帰宅したはいいものの、これから警察が現場検証に来るのを待たなければいけません。その後、明日何時に警察署に行けばいいか電話がかかってくるのを待っていないといけません。

寝てしまわないようにテレビをつけていましたが、見てはいません。ただひたすら時間が過ぎるのを一人で待っているのは、気が変になりそうでした。犬を抱いて、お隣の奥さんを訪ね、母が亡くなったことを伝えました。わたしは奥さんの胸で声を上げて泣きました。母が認知症でご近所にしばしば迷惑をかけていたことを急に思い立ち、一言お詫びを言わなくてはと思ったのです。

施設の現場検証に時間がかかったらしく、うちに警察の方がいらしたのが、夜の23時を過ぎていました。片づける気も起らず、朝、母が起き抜けのベッドや散らかったままの部屋の写真を1人の警察官が何枚か撮影していきました。もう1人の警察官は犬を抱いて震えながら椅子に座っているわたしに、葬儀社の話をしていました。

「警察の冷蔵庫がいっぱいでね。今ご遺体3体あるのよ。それで、明日の検死が終わったら、葬儀社にお母さんを引き取ってもらおうか。葬儀社24時間受付してるから。警察から紹介できるここでいいかな。ここのね、電話番号。俺が今から電話かけてあげるから、途中で代わって。葬儀の相談もここでできるから。また後でね監察医務院の先生が警察に回ってくる時間がわかったら連絡するからね、そうしたら死亡診断書も出るから、今晩葬儀社に電話して明日警察に来てもらって。いい?」

病院の霊安室にいるときから、わたしに付いていた年配の警察官のSさんが、葬儀社に電話をかけてほとんど話を詰めてくれました。わたしは電話を引き継ぎ、母の名前や年齢を答えたくらいです。葬儀社の人は、今火葬場がすごく混んでいるので、火葬できるのは早くて一週間後になりそうだと言っていました。

翌日、わたしは朝10時半に警察署に行くことになりました。

母が亡くなりました 後編に続きます。

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