日記

母が亡くなりました 後編

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母が亡くなりました 前編のつづきです。

昨夜、刑事さんが自宅の現場検証を終えて帰られたあと、わたしはもう体力も気力も尽き果ててぬけがらのようになりながら、それでもまんじりともせずに一本の電話を待ちました。警察からの母の検死時間を知らせる電話です。24時をかなり過ぎたころ電話のベルが鳴りました。

「明日は10時半に警察署に来てください。監察医務院の先生がだいたいその時間に回ってきます。明日はご遺体が3体あるので、お母さんが何番目の検死になるかはわからないけれども、早めに見てもらえると思う。葬儀社にもこの時間を伝えて、明日警察署で会っていろいろ相談にのってもらって」

という内容でした。わたしは電話を切ると、すぐに刑事さんに教えてもらった葬儀社に電話をし、時間を伝えました。

(ようやく横になれる)

布団に入って、眠ろうとしても眠れません。輾転反側を繰り返し、目を閉じても瞼の裏からうす明かりが見えているような、ときどきわずかな涙が流れては枯れ、体が冷えて寒さに震えているうちに朝になっていました。

検死結果

レースのカーテン越しに外が明るくなったので、起きて外を見たら小雪がちらついていました。そういえばテレビの天気予報でも今日は雪になるって言ってたっけ。昨日の夜は刑事さんに警察署まで地下鉄と徒歩で行くにはどうしたらいいかと行き方を聞いておいたのですが、雪を見て、タクシーで行くことにしました。

祝日の月曜日だったので普通の会社関係はお休みです。ただ、母が圧迫骨折の後から受けていたマッサージ師さんが、「来週は祝日ですけど来ますね」と、言っていたのを思い出し、アメニティサービスの会社に電話をしたら留守電になっていました。母が亡くなったとメッセージに残して、わたしは警察署に向かいました。

警察署に着いて通されたのは、大人が4人座るとぎゅうぎゅうになりそうな、狭くて簡素な控室でした。正面の壁に貼ってあった東京の地図をボーっと見ていたら、刑事さんがお茶を持ってきてくれました。

「ご遺体4体あるんで、しばらく待つかもしれないけれど、検死が終わり次第先生から説明がありますから、ここで待っていてください」

(あ、ご遺体1体増えてる……。)

タクシーで来たとはいえ、朝から雪が降って寒かったので、温かいお茶は有難かったです。昨夜寝ていないのもありましたが、控室は捜査一課と組織犯罪対策課の横をパーテーションで区切っただけで、隣の刑事さんの会話が聞こえてきました。室内なのに寒々として、ひたすら母の検死を待つという特殊な状況だったので、ずっと緊張して座っていました。

それと、これは抗がん剤の副作用だと思うのですが、昨日から泣いたあとに鼻をかむと、小さな血の塊とともに鼻血が出て困りました。泣いてしまうと鼻血が出るので、今日は泣かないようにしようと思っていました。

どれほど時間が経ったのでしょうか。刑事さんの案内で監察医務院の先生がわたしの前の椅子に座りました。いままで嗅いだことのない、甘ったるくて生臭い匂いが控室に入ってきました。死臭とはこういうものかもしれないと思いました。監察医務院の先生は死体検案書と、一枚のリーフフレットを見ながら説明してくださいました。

「娘さん? 東京監察医務院のKです。お母さんの腰のところにあざがあるんだけど、何か知ってる?」

「2週間位前にショートスティに行ったときに転んだとかで、頭にあざを作って病院で検査をしてもらったことがあって、そのときに腰も打ったのかもしれません」

「転んだのね。これね、死体検案書です。直接死因は虚血性心不全(推定)って書いてあるけど、推定っていうのは心不全には違いないんだけど、解剖したわけじゃないから心臓のどこの血管が動脈硬化を起こしてるかっていうのはわからないわけね。そういう意味での推定。虚血性っていうのは心臓に血液が行かなくなっちゃったってこと。あと、高血圧と心房細動があったね」

「はい」

「これね。(リーフレット「突然死の中で最も多い 急性心臓死ーその主な種類と診断根拠ー」を開いて)わたしは監察医務院ってところから来てるんだけど、こういうの出してるの。で、ここね」

7.患者を助けること(救命)が可能であったか 短時間での心肺停止の場合、実際に家族や知人らがそばにいて直ちに救急搬送してもほとんどの例で蘇生は稀ですので、助けることは極めて困難であるといわざるを得ません

「ご家族にしてみれば自分を責めたりされる方もいらっしゃるんだけれど、いわゆる突然死ってこういうものだから。これ後で読んでくださいね」

先生の話を聞いて、リーフレットを繰り返し読んで、とくにこの記述は、施設長さんから電話を受けたときに聞いていた母の最後の日の様子とぴったりあっていました。

3.虚血性心疾患の症状
典型的な場合…胸痛ないし胸部の苦悶感、肩から上腕にかけての痛み、悪心・嘔吐、場合によっては下顎痛、歯痛。高齢者では腹痛や腹部不快感などもあります。症状が続くと全身の熱感や発汗が強くなります。これは心臓の働きが悪くなり、それを防ぐために自律神経の交感神経が作動して闘争的な生理状態となるためです。

母には心臓の持病があったし、胸水が溜まったり心不全の治療のため入院を勧められるほど悪化していたのはたしかなのだから、砂時計の砂がすこしずつ下に落ちていくように、母の心臓も少しずつ最後の時を刻んでいたんだ。最後の砂が落ち切ってしまったのが、たまたまデイサービスの施設だったんだと、自分を納得させるように、気持ちを切り変えていったのです。

死体検案書の反対側が死亡届になっていました。母の遺体とともに葬儀社に移動し、死亡届の記入をしました。

葬儀社の霊安室でようやく母に会えました。棺の顔の上の窓を開けると母の右の鼻から鼻血が出ていました。

「検死のときにご遺体をひっくり返したりしますので。後で拭いておきます」

と、言われました。

火葬場の予約が取れるまで、母にはこの葬儀社に居てもらいます。寒いのも、独りになるのも、大嫌いだった人でした。ごめんね、お母さん。早く家に帰りたいよね。もう少し待っててね。一緒に家に帰ろうね。

予期せぬ訪問者

葬儀社から帰宅して、昨日からの疲労と寝不足で、布団に入って短い時間にかなり深く眠っていました。眠りを打ち破ったのはうちのインターフォンが鳴った午後3時でした。こんなときに誰だろう。重たい体をなんとか起こして玄関のドアを開けると母のマッサージ師さんでした。マッサージ師さんは今日が祝日だったので、会社に寄らず直接仕事先に来てくれたため、朝、わたしが会社の留守電に吹き込んだメッセージは聞いていなかったのです。母が昨日亡くなったことを話すと、一瞬膝の力が抜けたようによろけて、玄関の壁に右手をついて体を支えていました。わたしもこらえていた涙が溢れて、今までお世話になったお礼を伝え

「うちの母の足がむくんじゃったときにも、いろいろ教えていただいて、マッサージしていただいて、おかげさまで足のむくみもなくなって本人も喜んでいたんですけど、昨日急に亡くなってしまって。今まで本当にお世話になりました。ありがとうございました」深く頭を下げて、涙を止めようとしました。するとマッサージ師さんが

「実は、自分、お母さんにもお話したんですけど、亡くなったお父さんも担当してまして、病院にお見舞いに行ったことがあるんです」

と仰ったので本当にびっくりしました。父は多発性骨髄腫で8年前に亡くなったのですが、晩年は入退院を繰り返し、家で療養していたときにはマッサージ師さんを毎週呼んでいました。アメニティサービスと言っても、父を診てくださっていた在宅訪問の医師から紹介していただいた会社なので、圧迫骨折の後遺症で腰痛がひどい患者さんに施すような医療マッサージなのです。

「お父さんとは気が合って、本当にかわいがっていただきました。自分が病院にお見舞いに行ったときはお元気で、早く退院してくださいよ、退院したらまたマッサージしますからって言ったら、そうだな頼むよって仰ってました。将棋がお好きで、自分も将棋好きなのでよくお話しました。その後亡くなられたって聞いてたんですけど、お母さんを担当することになって、珍しい苗字だからすぐに思い出しました。そうですか、亡くなられたんですか」

仕事で知り合った父のお見舞いにわざわざ行ってくださるなんて、このマッサージ師さんはなんていい方なんだろう。不思議な縁がつなぐ思い出話に、2人とも涙、涙でした。

密葬と母の遺言

火葬場が混んでいたため、母の葬儀は10日後の2月21日(木)の2時からに決まりました。それまでのわたしはすっかりうつ状態になり、母が亡くなった3日後にはかかりつけの精神科に行って、睡眠薬と抗うつ剤を処方してもらいました。

ひきこもりのねたきりで、隣の部屋で母が寝ている鼾のような幻聴が聞こえたり、寝て起きたら母が帰って来るような、介護生活の感覚が抜けきれないでいました。精神的にも体力的にも母の葬儀を無事に執り行う自信がありませんでした。また、母の死を親戚や友人に知らせなければと思い、母が持っていたアドレス帳を探しても見つかりません。いつも持っていたお気に入りの紫色のリュックに入れていたはずなのに見つからなかったのです。しかし、母の葬儀が終わって、リュックの中を見たらアドレス帳はちゃんとあったのです。部屋中探し回って見つからなかったのに、あるべきところにちゃんと入っていた。ないものが聞こえて、あるものが見えない。

そのうち、うちにいてめそめそ泣いているか、犬と遊んでいるかの生活から、少しずつ母の部屋を片付けだしました。見つからなかったアドレス帳を探すのが目的だったのですが、ポータブルトイレやベッドで人が座るところもない母の部屋を、落ち着ける仏間にして、母の遺骨を迎えよう。お線香を上げに来てくださる方が座るところをちゃんと作ろうと思いました。ポータブルトイレはベランダに出して、箪笥を動かして仏壇が部屋の中央に来るようにしました。ベッドや箪笥など重いものは持てないのでちょっとずつずらしながら動かして、何日もかけて母の部屋を完璧に模様替えしました。

そういえば、母の火葬を2日後に控えて、突然わたしのスマートフォンが壊れました。電源を入れても画面は暗いまま。充電もできません。バッテリー内蔵式の機種だったのでバッテリーだけ交換するわけにもいかず、本体ごと変更をしなければなりません。母の葬儀前に外出してこれ以上体調を崩したくはなかったし、新規やMNPにすれば月額通信料も安くなるのですが、なんとなく電話番号を変えない方がいいような気がして、電車に乗って携帯ショップまで行って機種変更の手続きをしてきました。

母は認知症になる前は大変信心深い人で、毎日朝昼晩の3回仏壇に向かって手を合わせて勤行をしていました。そんな母に、せめて火葬にする前に戒名を付けてやりたいと思い、お世話になっているお寺のご住職にお願いしてみました。ご住職はわたしの事情を全てのみ込んで、戒名についても快諾してくださり、火葬場に行ってお経を上げてくださると仰いました。わたしはご住職の言葉を涙ながらに聞いていましたが、心の内は非常に安堵していました。

そのご住職さまから、母の葬儀の当日、モーニングコールがありました。

「今日、2時に火葬場へ行きますから。これわたしの携帯番号だから登録しておいてください。着いたらメールしますからね」

(わあ、スマホ機種変だけで番号変えなくてよかったー。ご住職さまはスマホ使い慣れてるんだー)

びっくりして飛び起きました。

葬祭場にいる母を火葬場へ連れていかなければなりません。棺の中の母の顔は、病院ではふっくらとピンク色で美しかったのに、触ると氷のように冷たく硬直し、見知らぬ老人が横たわっているような寒々しさを感じました。人間も10日も冷蔵庫に入れておくと水分が蒸発して肉が縮むのです。火葬することで母の肉体を失う悲しみより、一刻も早く母を寒さと孤独から救い出してやりたいと思っていました。葬儀社の車に乗って一緒に火葬場に向かいました。

渋滞で10分弱遅れて火葬場に到着しました。すでに駐車場にご僧侶2人と母の友人2人が着いていて、合流することができました。ご住職さまが仰るには

「10年位前にお母さんからお手紙をもらったの。自分のお葬式はお寺にお願いしたいって。あれはお母さんの遺言だと思ってね、ご葬儀はちゃんとしてあげたいから今日は来たの」

ご住職さまのお寺は千葉県の九十九里の海に近いところにあります。東京まで車で1時間半から2時間はかかる距離です。決して近くのお寺ではありません。にもかかわらず、ご住職さまが「行くよ。行ってあげるよ」と仰ったのは、母の手紙があったからでした。わたしが戒名をお願いしなきゃと思ったのも母の導きかもしれません。

火葬の前に、棺の前に祭壇を設え、母の戒名が書かれた白い位牌を供え、みんなで題目三唱しました。焼き場に移動し、名前と窯の番号を確認して、ロビーの休憩所で待機することになりました。

ご住職さまと、副住職さま、わたしたち母子がなにかと頼りにしていたKさん、母の友人のRさん、わたしの5人で火葬場にいました。母の友人のRさんとは40年以上の知り合いで、わたしも子どもの頃にお宅に遊びに行った縁がありました。わたしがポンコツでろくに知り合いに電話もしていないのに、ちゃんとこうして人が集まって母を見送ってくださることが嬉しかったし、ご住職が見せてくださった母の戒名に、また涙があふれてきました。

8年前に父が亡くなったときも、母と同じ葬祭場で告別式をし、ご住職さまにお経をあげていただいて、同じ火葬場まで来ていただきました。父は宗教に絶望しているようなところがあって、お寺とも積極的に関わろうとはしていなかったのですが、母は篤い信仰心から、父に立派なお葬式をあげてやったのです。ご住職さまは父にはもったいない戒名をつけてくださいました。母には、その父の戒名から一字取り、鬼籍に入る母と父の縁をちゃんとつなぐ一字を加えた、心安らぐ美しい戒名を授けてくださったのです。さらにご住職さまはこう仰いました。

「さっき火葬場の人に聞いたんだけど、火葬の前も終わってからもちゃんとお経をあげる時間はないっていうのね。だからこれから『骨供養』といって、お宅でお経をあげるから、みんなで行きましょう」

(えっ!? マジか! 部屋を片づけておいて良かった……)

白く、細く、小さな子どもの骨のような母を骨壺に納めて、わたしたち5人は副住職さまが運転する車に乗って自宅へ帰りました。

母の部屋は6畳間で、大人が5人入るには狭かったのですが、ご住職さまと副住職さまが、どんどん「骨供養」の準備を進めます。仏壇は使わず、母の骨壺を置く位置を決めるとその前にお位牌、後ろの襖に掛幅様の御本尊を掛けて、そちらを向いてみんなでお経をあげ、お焼香をしました。ちゃんとしたお通夜やお葬式はしてやれなかったけれど、うちの母ならご住職さまの心尽くしの葬儀にきっと感謝をしているだろうと思いました。

ご住職さまがお帰りになられる前にご供養をお渡ししようとしたら

「これからの生活があるんだからいいよ。持っていなさい」

とお断りになられました。でも、戒名をいただいて、拙宅に来て葬儀まで気を配っていただいて、手紙を出した母の思いもあるので、わたしなりに精一杯の気持ちをご住職さまにお渡しすることができました。

ご僧侶がお帰りになって、そっと母の骨壺を抱いたとき、まだとても温かいのが人肌のようで(さっき焼いたばかりだからなんだけど)、やっとうちに帰ってこられたね「おかえりなさい」という気持ちになりました。

残された母の想い

というわけで、ようやく母はうちに帰って来たのですが、まだわたしにはやり残したことがありました。それは田舎にいる兄弟に母が亡くなったことを連絡しなくてはいけません。

母の遺骨が帰ってきてからも、ごそごそとアドレス帳を探し続けていました。するとある日、母の部屋の本立ての中に便箋を見つけました。本立てには他にも便箋が数冊入っていましたが、一冊だけ表紙に「〇〇ちゃんへ ◎緊急に電話する所」と、わたしの名前が赤字で書いてありました。そして中に緊急連絡先として、田舎の兄弟たちの電話番号、会社員時代の同僚の電話番号、母が亡くなった後にしなければならないこと(銀行や年金の手続きなど)が全て書き出してありました。さらに母はわたしへのメッセージも残してくれていました。

お母さんが寝込んでしまった時は延命治療はしない事
○○ちゃん(わたしの名前)の病気は全部お母さんが持って行く
これからは元気で幸になるから心配はいらないよ

わたしはがんになって母に心配をかけたことが、母の認知症を進行させ、持病の心臓に負担をかけたのだと思っています。でも母はわたしの健康と幸せをずっと前から願ってくれていたのです。

○○ちゃんの健康と幸せをずっとずっと見守っています

物忘れが多くなってわけがわからない。ごめんね
めいわくばかりかけたね

○○ちゃん、本当に苦労をかけてごめんね

わたしが母の介護をしていたときは、労いや感謝の気持ちを直接言葉にして伝えてくれたことはありませんでした。しかし母は次第に自分の記憶が失われていくのを感じながらも、わたしへの思いやりの言葉をちゃんと書き残してくれていました。

母の介護生活は筆舌に尽くし難いほど大変だったけれど、わたしにできることは精一杯やりきりました。今ではいい思い出、子どもに戻ったようなかわいらしい母の姿しか残っていません。母との穏やかな日々はかけがえのないものでした。わたしも母を無事に見送れて感謝しています。

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